AIDは今まで70年以上の歴史がありながら、生まれてきた子どもの追跡調査がされていませんでした。
正確で詳細な情報の不足により、生まれた当事者は自分のことを知りたくても断ち切られています。
また、この技術についての正しい情報があまりに少ないため社会的認知度もかなり低い状態です。
この医療を選ぶ夫婦は少なからず血縁にこだわる傾向があるからこそ、養子という方法を選ばずAIDを選んで家族になっているのでしょう。周囲には血が繋がっていると思われたいためか、事実が語られなかったということが考えられます。
そして語られないもうひとつの大きな理由として、医療側の「誰にも言わない方がよい」という強制の結果であるということがあげられます。
医療側は、提供者とAIDによって家族となった人達のプライバシーを守るということから語られてきませんでした。
提供者は匿名であるうえ、自分の提供精子によって子どもが生まれたかどうかさえ知らされませんでした。提供者もまた、語ることはありませんでした。
この医療に関わった人々(医師・提供者・親)はいずれも語ることなく情報がきわめて乏しいのが現状です。
しかし、AIDを行った医療側にも生まれた子どもやその後の成長についての記録・報告がないのはどういうことでしょうか。一万人を超える子ども達とその家族はどうしているのでしょうか。
私達生まれた当事者がその事実を疑っても、あるいは事実を知っても、どういう技術なのか詳細を知ることが難しく、相談する所もありません。それは親にとっても同様です。AIDがどのように行われているのか、どういう問題を抱えやすいのか、そしてどう向き合っていけばよいのかということがわかりません。子どもにとってどうしてやるのがよいことなのか本当のことを教えてくれる所がありません。それは追跡調査がされなかったことが大きく影響しています。これからもこの技術を続けるのであれば、医療側は自信と責任をもって生まれた子どもと家族のその後の追跡調査を始めることが必要でしょう。
■アイデンティティーの喪失
アイデンティティーとは自己同一性とも言われ「自分は誰なのか、どこにその存在の根を持っているのか、何を為すべきか」というような心の概念だと言われています。
自分が誰なのかを知ることをアイデンティティーを確立する、と言います。
(自分が何者なのか、将来どうありたいのか)と深く考えるという気持ちは、経験した人にとっては共感しやすいことでしょう。しかし、そのように深く考えた経験のない人には進学や就職について考えることは理解できても、(自分は何者なのか)ということは非常にわかりにくいのではないかと思います。またアイデンティティーの確立ということにおいて、あまり悩まずに通り過ぎてしまう人もいれば、大変な思いで辿り着く人もいるでしょう。どちらがよいか悪いかではなく、とても個人差のあることだといえます。
出自とは「生まれ」のことを言います。
成人してから出自を知らされるということは、アイデンティティーの根っこをいきなり失う体験となります。
積み重ねてきた土台となる根っこのアイデンティティーを失うということは、自分の存在を大きく揺さぶられることです。
成人してからAIDで生まれた事実を知るということは、とても大きな喪失体験と言えます。
■提供者は誰なのか=私は誰なのか
出自を知ること=提供者を知ることはアイデンティティーの確立に必要なことであると上の段でお話しました。
子どもの頃、母と“もし、よその子と取り違えていたら…うちの子じゃなかったら”という話をしたことがあります。その時何の迷いもなく「そんなの育ててくれた人が親に決まってるよ!今さら他の人を親と思えないし…。」と答えた覚えがあります。
AIDで生まれたと知った今でもそう思います。
「育ててくれた人が親」その通りだと思います。
ただ…知るまでは「育ててくれた人が親」というだけで充分だと思っていました。
「提供者は誰なのか=私は誰なのか」という思いにぶち当たることなど考えもしませんでした。
事実を知ってからたくさん考えてきました。
この感情はどこからくるのか、どう納得していけばいいのかと考えてきました。
そうするうちに、私にとって「提供者は誰なのか=私は誰なのか」ということと「育ててくれた人が親」であることは別の問題なのだと分けて考えるようになりました。