Lack of information and social concern
今の日本では徐々に変わりつつありますが、AIDで生まれた人にとって、自分と同じような立場の人がいるのか、自分の悩みや相談を受けてくれる所はあるのか、そういった情報に触れる機会はまだまだ少ないと言えます。
AIDについて誰かに話してよいものなのかということに悩む人もいますし、悩んでもよいのだろうかとさえ戸惑う人もいます。
成人してから突然AIDで生まれたことを知った場合には、親とも話し合えない状況も多いです。そもそも成人後の告知かどうかに関係なく、一般的に周りの人はこの問題をよく知らないため安易に相談もできず、AIDで生まれた子どもは孤独に悩むことになりがちです。
日本では、親が子どもに告知をすることがなく、自分がAIDで生まれたことさえ知らずに生きている子どもが多いため、AIDで生まれた人は身近ではありません。よってAIDで生まれた人の気持ちを聞く機会はほとんどありませんでした。そのため、実際にAIDで生まれた当事者がどんな悩みや不安を抱えているのかを、本人以外の親や提供者、医療機関はあまり気にかけてきませんでした。
「もっと早くに告知をしてほしかった」「提供者を知りたい」という当事者の言葉に対して、第三者からは「望まれて生まれてきたのだから幸せだ」「親の気持ちも考えて」「不妊の辛さをわかってあげて」「親がわからなくても生き抜いている人もいる」という、社会的に共感を得やすい意見が返ってくることがあります。
しかし、親の気持ちを知ることがAIDへの理解につながるとしても、それによって生まれた子どもが必要以上に「親の辛さ」を察する必要ないと考えます。
子どもは親とは別の存在です。AIDで生まれた子どもの気持ちを、あるがままに尊重できる社会になってほしいです。
また、提供者を知りたいということは、自分の情報を取り戻したいという、人としての自然な気持ちです。親を裏切ることではありません。親も社会も、AIDで生まれた子どもの気持ちを尊重してほしいと、子どもは願っています。
一昔前、日本ではAIDで生まれた子どもは、出自を知る権利があるのと同時に「出自を知らされない権利」があるのではないかという議論がありました。
「知らされない権利」というものは知ることと知らないことを同等に選べる立場にある場合に使われる言葉です。告知をしなければ知らない立場にあることさえわからない場合には適用されるべきではありません。
私たち生まれた当事者の多くは、AIDで生まれたことが不幸だと思っているのではなく、自分自身に関わる情報から切り離されていることに不満があるのです。